令和6年5月号会報「東基連」編集後記

まるでスローモーションのように、ゆっくりと時が流れる一瞬であった。四ツ谷駅から麹町駅方向に向かう新宿通り。お洒落な敷石が敷き詰められた歩道。右足の革靴のつま先が、敷石の僅かな段差に引っ掛かった。直ぐに左足を前に出そうとしたが、その左の革靴のつま先も同じ敷石の段差に引っ掛かり、両足が揃った状態で体が前のめりに。地面が目の前に近づいて来る。咄嗟に両手を前に出す。まず両膝が地面にぶつかる衝撃。続いて両手の掌(てのひら)がぶつかる。背負ったリュックサックが頭の上をゆっくりと1回転。体を前に投げ出す状態で倒れ込んだ。
傍らを歩いていた若い女性が「大丈夫ですか!」と駆け寄る。リュックサックが頭に乗り、その重みで立てない。彼女の助けを借りて、ようやく立ち上がることができた。お礼を述べながら段差を見ると、1ミリも無い。人は段差が無くても転ぶというが、本当だった。 
この転倒で、高年齢者となった自身の身体能力の低下を実感した。これまでは青・壮年期の労働者を対象とした安全衛生対策であった。しかし、高年齢労働者の増加によって、幅広い年齢層を対象とした『フレンドリー』な対策が喫緊の課題と痛感した。そう、段差が無くても人は転ぶ。
東京労働局の「令和6年度の主な重点施策」をまとめた、「東京の労働行政Profile2024」。その冒頭には、「安心して働き活躍できるTOKYOへ」とのスローガン。この「TOKYO」とは、「安心して働き活躍できる職場の集合体」でもあろう。このスローガンが示されて1か月が経過した今、「Profile2024」のページを捲りながら、我が職場を見つめ直す機会を設けてはどうだろうか。
転倒防止のみならず、全ての分野にわたり、意識と設備の双方の改革に挑む令和6年度でありたい。 
(小太郎)

令和6年4月号会報「東基連」編集後記

春は歓送迎会の季節。しかし、遡ること4年前の令和2年。横浜港に寄港したクルーズ客船での集団感染に象徴されるように、日本中に新型コロナウイルス感染症による困惑と不安が渦巻いていた。厚労省が「3つの密(密閉・密集・密接)」を避けるようにと公表。私の周囲では、全ての歓送迎会が中止となった。
今年の2月、「令和2年春の送別会を開催したい」との連絡が。異動の頻繁な組織なだけに、全員が当時の部署から離れていた。しかし、遠方にいる数名を除き14名が関東一円から集った。4年のブランクは瞬時に消え去り、当時の思い出話と現在の話。結婚した者、子供ができた者。時の流れは、それぞれの人生に新たな歩みを刻んでいた。
そして4年振りに出会う顔(かんばせ)は、全員が輝く笑顔に弾けていた。特に若い世代は、その相貌を大きく変えていた。どこか不安そうな気配を滲ませていた者たちは、確かな自信を内に秘めた表情に。屈折した感情を隠せなかった者たちは、真っ直ぐに前を向く明朗な姿へ。この年月の彼らの努力。そして彼らの上司・先輩・同僚たちの働きが、変化に繋がったことは間違いない。私ができ得なかったこと。感謝が溢れ、胸が熱くなった。
英語の「confidence(コンフィデンス)」は、「信頼」とも「自信」とも訳される。信頼は外側の問題、自信は内側の問題と捉えがちだが、その2つが一語に含まれている。信頼関係に包まれた動きの中で自信が生まれ、自信が満つる中で信頼関係が強くなる。「信頼と自信」は一体の存在。青年世代を信頼し、大切に育んでいきたい。そこで生まれた自信が次代を切り拓く。若い人を大切にする組織に、行き詰まりは無い。  
さて、我が職場の春の歓迎会。まずは有志による準備企画会を開催しましょう。勿論、会場はいつものあのお店で。
                     
(小太郎)

令和6年3月号会報「東基連」編集後記

「いちご狩り」に夢中になるとは思いもしなかった。昭和30年代生まれの私。子供の頃はもとより、成人した後になっても「いちご狩り」の経験は全く無かった。その言葉は知っていたが、どこか遠い世界のお伽話。男の行く場所ではないとも。妻に誘われても、首を縦に振らなかったのは、つまらない男の沽券の故か。
転機は、思いがけないところから訪れた。大正生まれの岳父が「一度、いちご狩りと云うものに行ってみたい」と。嬉々として準備する妻。引き摺られるように向かった、初めての観光いちご農園。30分食べ放題でこのお値段。少々お高いと感じた気持ちは、大粒の「とちおとめ」を口に運んだ瞬間、消え去った。
円錐形で濃く鮮やかな赤色。強い甘みに程よい酸味。果汁たっぷりの果肉。次から次へと手が伸びる。この列は「やよいひめ」、あちらは「章姫(あきひめ)」、「紅(べに)ほっぺ」と。まるで子供のような自分。しかも止まらない。男の沽券は吹き飛んだ。
先月、東基連・中央支部が「女性活躍推進セミナー2023」を開催。清水建設(株)・西岡真帆DE&I推進部長と、東京労働局・横山ちひろ総括指導官からご講演を頂いた。「ダイバーシティ(多様な属性の個人が認められて参画できる環境)」と「インクルージョン(全ての従業員が互いに尊重され、能力を十分に発揮できている状態)」。この二つは不可分な関係にあり、誰もが働きやすい環境を目指していく中で、最重要事項であることを、お二人の講演を聞きながら改めて実感した。
個人の能力を最大限に引き出す鍵も、ここにある。社会は多様な属性を持つ人々から構成されている。その中で、互いの尊重を妨げる要因に根拠の無い思い込みがあろう。数十年にわたり「いちご狩り」を拒否していた私もまた、勝手な思い込みから素敵な機会を逃していた。
さあ、3月は苺の旬。「いちご狩り未体験」のご同輩。このシーズンこそ、騙されたと思って、一度「いちご狩り」に出掛けてみませんか。
(小太郎)

令和6年2月号会報「東基連」編集後記

アルバムから古い写真を探し出した。30数年前の長男の誕生日祝い。ようやく立ち歩き始めた1歳になる彼。祖父母から贈られた丸い一升餅を風呂敷で背負い、満面の笑みを浮かべ、覚束(おぼつか)ない足取りながら、嬉しそうに一歩二歩と。このあと、尻もちをつき、泣き出したのはご愛敬。
地域によって形は違うが、「一升餅」「背負餅」等と呼ばれる、満1歳になる赤ちゃんの成長を祝う伝統行事。風呂敷などに一升(約1.8キロ)の餅を包み、子供に背負わせて歩かせ、子供の一生の幸せを願うもの。「一升」と「一生」をかけ、「一生食べ物に困りませんように」との願いを込め。また、一升餅の丸く平たい形には「一生円満に過ごせますように」との思いが。
最近、「心理的安全性(psychological safety)」という言葉をよく耳にする。その意味は「組織やチームのなかで、誰もが率直に、思ったことを言い合える状態」と。ハーバード・ビジネススクールのエイミー・C・エドモンドソン教授が発表。その後、Googleが「心理的安全性が高い組織ほど、パフォーマンスが向上する」との調査結果を公表し注目を集めた。
詳しい説明は専門家の著述に委ねるが、健全な意見の衝突がチームの活性化を促すのは確かであろう。そして、メンバー間の深い信頼関係。仲間の成長と幸福を願う気持ちが満ちている組織。そこにこそ、高い生産性が生まれることを立証したものであろうか。
一升餅を背負った長男は30歳代の後半に足を踏み入れ、厳しい社会の真っただ中にいる。長男だけでなく、多くの人があの時のように、尻もちをつき、転び、立つのも難しい日々を送っているかもしれない。しかし、誰もが迎えた1歳の誕生日。あの日、あなたを囲み、あなたを見守った人々の思いは今も変わらない。一人ではない。
間もなく、彼の息子が1歳の誕生日を迎える。私と妻から、一升餅を贈らせて貰おう。「一生食べ物に困りませんように」「一生円満に過ごせますように」との願いを込めて。
(小太郎)